こんにちは。【みなと】です。
【みなと】の生い立ち、趣味、やってきた仕事なんかをご紹介いたします。
自分語りで、ちょっと長文です。興味ない方はすっとばしてください。
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みなとのプロフィール
出生地:九州の西の方
家族:妻とこども一人
趣味:自転車でウロウロすること
自転車に乗るのは好きです。というか、乗り物全部好きです。
学校:高校まで九州の西の方。大学は愛知県
大学は「福祉御三家」と言われているところです。
最初から福祉を目指していたわけではありませんでした。滑り止めで受けたこの大学しか受かりませんでした。身の程知らずでしたね、完全にバカでした。
そんなんでしたから、勉強は全くせず、4年間ほぼボーッとしてました。
どんな仕事をしてきたか?
仕事その1:老人保健施設の介護職 介護保険が始まる前!
大学3年時にバブルが崩壊。就職氷河期が始まっていました。一つ上の先輩は楽々と就職を決めていましたが、自分たちの世代になって、「簡単に」とはいかなくなりました。
ただ、私はボーッとしてましたので、「これがやりたい」とか「この会社に就職したい」なんて全くなかったんですね。
「面接受けて受かったところに行こう」と、そんな感じでした。
なので、就職もなかなか決まらず、4年生の冬にようやく老人保健施設への就職が決まりました。介護保険なんてまだありませんでした。
就職が決まったと言っても当時はあんまり将来を決めたくなかった、というのが本音でした。人並みに就職できたことは嬉しかったのですが、ずっと「この道でいいのか?」と自問自答してました。
就職して、一応「福祉大学から来た」ということになっていたので、それなりに真面目にならなくては、と思いました。
大学時代はほとんど勉強しなかったので、改めて福祉の勉強をやり直しました。介護技術の研修も毎週のように参加してました。
「もっと世の中を知らなくては」と考え、薄給にも関わらず朝刊を3紙も撮っていました(当時はインターネットも黎明期で、思いつく情報源といえば新聞・テレビ・本でした)。
おかげで少しばかりの知識は身につきました。理にかなった介護技術も使えるようになりました。
天狗になって「ここは行き当たりばったりの介護しかやっていない!」と会議で一丁前に発言なんかしてました。まわりからしたら、相当の鼻つまみ者だったと思います。
当時、私を介護の勉強に駆り立てたのは「本当にこんな行き当たりばったりのやり方でいいのか」という思いでした。思いというよりも「怒り」に近かったです。
まだ介護保険法が施行される前でしたし、ケアプランなんてものはなく、日々のルーティン業務はあるものの、入所者個々に合わせた介護なんて皆無でした。
「十把一絡げ」という言葉がぴったりでした。
そして、「みんなこんなやり方でやってるから、これでいいんだよ」と進歩も変化もない空気が蔓延していました。
「ほんとに、こんなんで良いのか!」と私は一人で怒り狂ってました。
また、一所懸命仕事をしても全く上がらない給料にも怒り狂ってました。
就職した最初の年の基本給が「10万7千円・・・」でした。
夜勤を月に5〜6回やって12〜13万円に届くか届かないくらい。
春の昇給が500円〜1000円・・・。
ひとり暮らししてましたから、家賃とか食費とかガソリン代とかで、あっという間にお金はなくなり、貯蓄なんてほとんどできませんでした。
ボーナスを含めても、年収200万なかったと思います。
それでも我慢して5年ほど勤めたある時、職場の飲み会で、
「給料安いし、将来設計も立てられないから辞める!」と宣言しました。
「一所懸命仕事しても、これでは将来の見通しが立たない」と部長や施設長の前で宣言したのです。
数日にわたる説得がありましたが、私は考えを曲げませんでした。非常に生意気で融通のきかない職員だったと思います。
ただ、未経験だった私を、一から育ててくださったその職場には、とても感謝しています。
仕事その2:デイケアの介護職(まだ介護保険は始まっていない)
老人保健施設を辞めてから半年くらいブラブラしてました。日銭が尽きてきた頃、お世話になっていた作業療法士さんから「ちょっとウチのデイケアに手伝いにきてくれ」と言われて、アルバイトに行きました。
あまり重介護の人も多くなかったので、仕事自体は老人保健施設と比べると楽でした。
しかし、そこで痛感したことがありました。
「前の職場でやっていたことが次の職場では通用しないことがある」ということです。
基本的な介助方法は同じなのですが、レクリエーションや行事などの企画や実行がかなり違っていました。
老人保健施設では季節の行事が多く、大掛かりでそれを実行するための会議が終業後に行われていました。残業代はつきません。職員の負担も大きかったのです。
アルバイトで行ったデイケアでは、季節の行事はもちろんありましたが、やり方についてはマニュアル化されており、役割も事前に決められていて、会議も注意事項くらいでした。ボランティアも積極的に受け入れ、一部はアウトソーシングされていました。
「こういうやり方もあったのか」と思い知らされました。
1箇所の職場を経験するだけでは視野が狭くなる。介護職や相談職は数カ所の職場を経験する必要がある。複数の職場を経験することで深みのある仕事ができる。
賛否両論ありますが、私の持論はデイケアで感じたことを源としています。
デイケアでのアルバイト後、私は少しだけ学校に行きました。創設された精神保健福祉士を取得するためです。
介護福祉士は取得していましたが、「精神保健福祉士の資格を取ったら、少しは年収も上がるかも知れない」という下心もありました。
この期間に介護保険法も施行されたので、介護支援専門員も取得しました。
仕事その3:精神科病院で精神保健福祉士
精神保健福祉士を取得後、とある精神科病院へ就職しました。
電話をかけて面接に行ったら、その場で「内定」というあっけない決まり方だったのですが、その病院になんとなく違和感を感じていました。
あとから考えれば、これは「直感」だったと思います。直感に従えば、後々後悔することはなかったのでしょうが、とにかく内定をもらったことが嬉しくて、すぐに働くことにしたのです。
勤めて初日から愕然とすることが次々と起こりました。
違和感の中心人物である理事長から、
「精神保健福祉士だからレセコンが使えるだろう」
「ファ?!」
*レセコン=レセプト(診療情報明細書)を計算して、作成するコンピュータのこと。医療事務の専門知識を持ったスタッフが主に使用している。
この理事長の言葉に目の前が真っ暗になるのと、頭の中が真っ白になりました。
今でも覚えているのは、4月にも関わらず大汗かいて背中に汗の筋が落ちたことです。
なんとか、そばにいた人(実はこの人も精神保健福祉士だが事務を兼任していた)に尋ねて、レセプトの入力をしました。
さらに驚いたことに、外来に看護師がいませんでした。なんと事務兼精神保健福祉士が外来看護師を兼ねているような状態でした。
外来診察も独特で、診察室に事務兼精神保健福祉士が患者さんの後ろに立って、診察に同席する、という具合でした。
一応、院内薬局がありましたが、なんと薬剤師がいませんでした。全然いないということはなかったのですが、薬剤師を見るのは月に数回くらいで、事務の人が調剤していました。
さらにさらに、病棟に行くと驚愕することがありました。
男性看護師が患者さんを罵倒し、時によっては患者さんを投げ飛ばしていました。
初日の勤務が終わって、病院の寮に帰って泣きました。
「俺はこんなところで働くために勉強したんじゃない」と。
すぐに辞めれば良かったのですが、当時は我慢して働くことが美徳という雰囲気がまだあった時代です。
なんとか我慢して働いていました。
この病院はまだまだ驚くことがたくさんあって、ここに書けないこともありました。
看護師の「名義貸し」も横行していました。
仕事の後にソフトボールやバレーボールの練習、休日の試合、無理やりの飲み会等もあり、本当に仕事に行くのが辛かったです。
毎日、どうやったら辞められるかを考え、半年経った時に、何も言わずに退職届を事務長に手渡して辞めました。
後日、この病院は悪事が世に知れ、理事長は逮捕され、病院名も変わりました。
仕事その4:精神科病院で精神保健福祉士
知人の紹介で、わりと先進的な精神科病院に就職しました。
前の病院とは全く雰囲気が違い、違法なことも行われていませんでした(当たり前といえば当たり前なのですが)。
すごくホッとしました。
精神保健福祉士として、精神科デイケアや生活訓練施設、認知症デイケア等で従事し、日々安心して仕事ができました。
給与面を除けば・・・。
そんな精神科で5年ほど勤めていると昇進の話がありました。
ずいぶん迷いました。
迷った結果、お断りし、退職することにしました。
「昇進しても、ここでの給料では家族を養えない」
これが答えでした。
昇進予定のポストで「基本給が13万円」という提示に頷くことができなかったのです。
いくら職場の雰囲気が良くても、家族を養うことができなければ、何のために働いているのかわかりません。
私としては、妻や子供にお金のことで惨めな思いをさせたくなかったのです。
そんな思いを上司に伝えて、寂しい気持ちはありましたが、次の仕事を探すことにしました。
仕事その5:ケアマネージャー
次に就いた仕事がケアマネージャーでした。
転職エージェントが介護分野にも新たに進出してきた時期でもありました。
そこで、ケアマネに特化した転職サイトを利用しました。給与面や完全週休2日制など、待遇面を重視した結果、就いた所は内科クリニック併設の居宅介護支援事業所。
ケアマネは私を入れて3人。
まだ、ケアマネ一人当たりの担当人数が制限されていない時で、私も最大55人を担当しました。
とても忙しく、利用者さん宅に行って利用票に印鑑もらうだけで精一杯でした。業務も非効率で、記録は手書き。ケアプラン作成ソフトと請求ソフトが連携していない、というお粗末さ。
それでも、なんとかみんなで力を合わせて、私自身もケアマネ業務に慣れていきました。
そんな時でした。
クリニックに併設していたデイサービスに、非常勤で勤めていた作業療法士に、
「どこかに良いケアマネさん、いませんかねぇ?今、探してるんですよ。給料は他よりずっと良いと思うんですけどねぇ」
と声かけられました。
”給料がずっと良い”
という口車に乗り、
「私で良ければ!!」と即答してしまいました。
バカでした。ほんとにバカでした。
この後、自分史上最大に後悔することになったのです。
仕事その6:認知症グループホームの管理者
なんとか理由をつけてケアマネを退職し、くだんの作業療法士が経営するグループホームに管理者として勤務することになりました。
いわゆる「ブラックな職場」というのは、どこか共通するところがあります。
最初の精神科病院も勤務初日から驚愕する出来事がありましたが、このグループホームも初日から想像以上でした。
勤務初日、引継ぎするはずの前管理者がいませんでした・・・。
仕方なくパートの介護職員から業務内容を聴いていると、別のフロアから、
「トイレが壊れたので修理してください」
「ファ?!」
トイレの修繕業者はどこか探していると、また別のパートさんから、
「今から夕食作ってください。私早番なんで帰ります」
「・・・」
聞いていないことが多く、人員基準ギリギリで回して、一人で何役もこなさなければならない状態でした。
頑張ればなんとかなる、と根性で頑張って2年間は勤めましたが、休日出勤は当たり前、月の残業時間は100時間超え、残業代はゼロ。
空室が出ればオーナーである作業療法士がパワハラ。
そんな状況で心身の健康が保てるはずもなく、家族との時間も減り、ただ飲酒量だけが増え、気持ちもすごく荒んでいました。
最後はオーナーと喧嘩し、退職届を突き付けました。
このグループホームはその後、閉業しています。またこのオーナーが経営している別のグループホームでは職員による入居者への暴力事件が起き、テレビ等でも報道されました。
仕事その7:通所施設の相談員、施設長
グループホームを退職して1週間くらい経って、とある内科クリニックのDrから電話がありました。そのDrはグループホームの往診に来られていたのです。
「悪いこと言わないから、ウチにきてみないか?」
正直、飛び上がって喜びました。過ぎに「行きます!」と返答しました。
甘い言葉、うまい話にのって懲りていたのに、またそんな話にのってしまったのです。
あきれるほどのバカです。
人手が足りない職場は、なんとか言って人を連れてこようとします。
この点に注意しなければなりません。就職した途端に態度を翻すところがほとんどだからです。
なぜ、人が足りないのか。
人が足りない原因は何か。
離職率が高い原因は何か。
この点の対策を怠っている事業所は、いつまで経っても人手不足で事故が起こりやすく、収益も上がりません。
反省を生かすことなくもなく、甘い誘いに乗りまくって、内科クリニック併設の通所施設に就職しました。
当初は介護職と相談員を兼ねて、2年後に相談員兼施設長という立場でした。
この職場には大きな欠点がありました。
それは、「悪口・批判が横行していた」のです。
離職率も高く、次から次へと人が辞めていき、人手不足も深刻でした。
責任者であった上司はすがる思いもあったのでしょう。自己啓発セミナーに盛んに参加していました。
私もその自己啓発セミナーに誘われ、行きましたが、100万近い教材を買わされた、ただのねずみ講でした。
うまい話に乗せられ、その通所施設で私は責任者としても勤めましたが、「悪口・批判が横行していた」雰囲気をなかなか変えることができず、常にスケープゴートで、サンドバッグ状態でした。
それでも歯を食いしばって、オバヘルの悪口批判に耐えながら、結局その職場で10年ほど勤務しました。
敢えて言うなれば、ここでの経験が私に耐性をつけさせてくれました。
しかし、今思うに我慢は美徳ではありません。
悪口・批判が横行しているような職場は、すぐさま見限るべきです。
そんな職場にいても成長はありません。人のかを伺う毎日になります。
自分のためではなく、他人のために仕事をしているようなものです。
ちなみに、この通所施設は私が退職した後、事業縮小の憂目にあっています。
仕事その8:精神科病院で精神保健福祉士
通所施設を退職後、知人のつてで、精神科病院で精神保健福祉士として再度勤務するようになりました。
今までの経験を活かし、後輩の指導にあたったり、採用面接の担当なども行っています。
現在、この職場で継続中です。
みなとが伝えたいこと
30年近い介護や福祉のキャリアで経験してきた中で、特に私が伝えたいことは、
「介護職やソーシャルワーカーが、理不尽な思いをしながら仕事をするのは、もうおしまいにしよう!」
介護職やソーシャルワーカーの仕事は、多くの人から必要と思われている仕事です。
しかし、給与の低さ、劣悪な待遇、未熟な組織、パワハラやカスタマーハラスメントの横行などで精神を病む人も多くいます。
そんな人を一人でも少なくしたい!
介護職やソーシャルワーカーの賃金を向上させたい、社会的な地位も向上させたい!
そんな思いで、ブログを書いています。